小野藤(おのとう)のあゆみ
小野藤株式会社は、明治25年(1892)、初代小野藤右衛門が足袋の製造販売を行う「小野藤商店」を岡山市野田屋町にて開いたことに始まります。足袋は明治中期以降コハゼで留める現在の形になり、需要が拡大し始めたのもちょうど明治以降になってからで、時流に乗った起業でした。
大正初期から洋装の時代に入り、昭和の時代になってからは、足袋製造から学生服製造に事業内容を変更。当時軍服を見本にしたと言われる学生服の商標は、明治時代に活躍した軍人の名前に由来した「乃木服」「東郷服」などがある中、当時の小野藤の商標は日露戦争の連合艦隊旗艦にちなんだ「三笠」と言うものでした。
昭和20年(1945)の岡山空襲で、岡山市野田屋町の本社・工場・本宅は32発の焼夷弾の直撃を受けて全壊しました。戦中は一時玉島へ疎開をしており戦禍を乗り越えてから、再び岡山の地へ戻って来て復活を遂げます。
戦後は女子学生服を主に製造し始めました。学生服の一大産地である児島地区は詰襟の学生服の製造と、企業により棲み分けがありました。
しかし、今日のように学生服のブレザーへの変遷により、男学・女学の棲み分けは自然消滅していきます。
近年2010年頃に入ってからは、衣料品製造会社、特に学生服製造会社の工員の高齢化、若い工員離れ、またコスト削減に対応するため、一部海外での生産を余儀なくされてきました。しかしながら現在に至っては中国に於いては、急激な人件費高騰と同時に人手不足、と言った嘗て日本で起こった出来事が、あの中国でも同じ状態になりつつあります。
現在では学生服の海外シフトに対応し、自社製品だけではなく、学生服に特化した同業他社向けの海外生産受注システムを構築しています。大手商社も同じことをしてはいますが、弊社の強みは、学生服の製造現場を知っていること。また現場に入って技術指導を行える者がいることだと思います。国内だけでなく、海外生産のネットワーク、と長年蓄積したノウハウを活かし低コスト生産のサポートを目指しています。
今までは、学校を通じ販売を行ってきておりますが、それだけではなく今後はインターネットを通じカスタマーズとの直接の販売をしております。別途ECサイトをご覧いただけば良いかと思います。